2017年1月19日木曜日

私はあの街に30年住んでいた

少なくともあのマンションには20年はいたのだ。にもかかわらず。あの部屋のベランダから富士山が見えることに気付いたのは、あの街を去る先日のしかも日の入りの時刻だった。
いかに私がなにものも見ていないかを示す例ではないか。

2016年10月30日日曜日

ほんの少しは記憶があったのだ。

だから楽しみにはしていたのだ。彼女の中に僕がいたことがうれしかったのだろう。けれどもう少し大きく彼女の中の僕は生きていた。もすこしかっこわるく。もう少しよい姿で。そして彼女の恋愛事情をきかなくtれはならない。彼女の中のぼくの恋愛事情をだ。

2016年10月6日木曜日

久々に旧友に会う。

具体的には30年ぶり。いや40年ぶりになる。自分もじいさんだ。彼女もばあさんだ。彼女の名字は変わっていない。

2016年9月20日火曜日

友人の娘が結婚するということ。

その友人が女性で、彼女が既婚者であり。その娘が僕の子であった場合。つまり僕の娘が結婚することになる。
僕が既婚者であり、彼女が僕の妻ではない場合。それはきわめて難しい状況である。別に難しいのではない。複雑ではあるが単純な話である。しかし、少し人の道から外れた状況ではある。
彼女の父親がその事実を知らなかった場合。その話はもっと複雑なものとなる。知らないままならば平穏ではある。知った場合が泥沼である。

2016年2月19日金曜日

頭の悪い人たちがまるで、自分は頭がいいのだと主張するように議論をしているのを眺めるのは悲しい。

頭が悪いと断じられる人の議論は、一目で頭が悪いと分かるのだ。例えばこうだ。「お日さまが東から上ることは正しい。だから私の意見は正しいのだ。でしょ。」だ。でしょではない。お日さまが東から上ることと君の意見は何の関係もないではないか。何の関連もないではないか。バカがたくさん集まって、ねえ正しいよね。私たちはみんな同じ事を考えているもの・・と語り合う。褒め合う。何のことはない。みんな、君らはみんなただのバカなのだよ。だけど、彼らはバカだから。そんなこと言ってあげる必要もない。こちらに被害が及ぶことにもなりかねないのだから。・・なんてね。

2016年2月7日日曜日

石橋里絵さんへの私信「記憶間違いの間違い」

貴女の文章が僕に推測させたのは、彼女は昔は、あるいは昔から雑巾を「ぞうきん」と読んだのだ・・だった。根拠はある。彼女はあの頃にはもう雑木林を読めたし、三角巾も読めたはずだ。考えてみると「巾」なんて字面も音もヘンな漢字なのだ。簡単すぎるのだ。単純すぎるのだ。布巾もいつも使っていたに違いない。「布」は「ぬの」だし「し(く)」だ。「ふ」であり「ぷ」だけれど、「きん」とは読めない。大人になって布の意味が「雑布」をぞうきんと読ませたのだな・・と。
キィボードを叩くのではなく、画面をタップするのでもなく、頭をカラにして、鉛筆やボールペンで紙に「ぞうきん」を漢字で書き取りしたら雑布とは書けないのではないだろうか。書かないのではないだろうか。こりゃ「ざっぷ」「ざつぬの」なのだ。
僕の使った言葉の意味は、「私は間違っていたのだなあ」というのが間違いだ・・だ。貴女は間違ってなどいない。最近になって「えっ」「雑布だよな、雑巾じゃないよな」と「ずっと前にそう覚えたし」というように記憶を上書きしてしまったのではないか・・と。
上手く説明できないけれど。日常生活の中で、不思議なことにこだわったり、悩んだり、面白いことを考えている貴女は、やっぱり面白いヤツです。ウン、面白いです。

2015年10月16日金曜日

言葉が生まれてくるときに何が必要なのか。

その意味で僕は今、徹底的に飢えている。どうやって経済的に救われるか、とか。良好な人間関係を維持するためには、作り上げるにはどうしたらよいのか、とか。時代が悪いとか。この国はどうなるのだろうかとか。どうやって今の閉塞感を打ち破ればいいのかとか。そんなことではなく。あるいはそんなことに飢えている。僕はKMの話を書こうとしている。