あかいとりのブログです。 モンシロチョウが一頭、空の底に向かって落ちていきました。碧く深い空の底へむかって落ちていきました。深く深く・・です。 目をこらすと様々な風景が見えてきます。
2018年8月7日火曜日
今日みたいにとても暑い夏の日だった。
公園前のバス停。その向こう側の道を左から右へ、彼女は通り過ぎる。私に気づいて少し頭をさげて・・きれいな笑顔だった。なんだかとてもまぶしい日差しだった。夏の午後だ。そのときのことを後で彼女は手紙に書いてくれていた。同じできごとを別の口が語れば風景までも変わって見える。あれから何度夏がめぐってきたのか、本当は正確に数えることができる。その道を今日もまた歩いた。こんなに狭い道だったのかと、私と彼女の距離はほんの数メートルだった。そんなものだ。セミが鳴いていた。
ラベル:
あの空き地はどこに行ってしまったのか
2018年5月2日水曜日
自分の話をするのは得意じゃない
ひとの人生を聴くのもめんどくさい。けれど、僕の前に座るひとの多くが自分の人生を語ってくれる。僕は話をまじめに聴いている顔をしているのかも知れない。メモはとらない。聴いている目の前でメモをとるわけにはいかないのだ。感想を書き並べるわけにはいかない。メモをとるのは別れたあとだ。できるだけときをおかずにノートしているのだ。その場では、忘れてしまわないように整理しているのだ。暗記しているのだ。ちょとした整理の仕方、暗記の仕方がある。ひとの話はちゃんとノートしている。もちろん、おもしろい話だったときには・・・だけれど。おもしろいにもいろいろあるのだ。
今日は、木村文乃と吉岡里帆のことの考えていた。彼女たちが競い合っていた。顔のことだ。どちらの顔が好みだと答えればいいだろう。そんなことだ。きっと、だれも僕にそんな質問はしないのだろうけれど。万が一ということもある。もしものために準備しておくのはいいことだ。勝者は木村文乃。これは決定事項なのだ。ここ数ヶ月変わってはいない。
彼の名誉のためにいうけれど、もちろん彼の話も聴いていた。ちゃんと聴いてはいたのだ。
今日は、木村文乃と吉岡里帆のことの考えていた。彼女たちが競い合っていた。顔のことだ。どちらの顔が好みだと答えればいいだろう。そんなことだ。きっと、だれも僕にそんな質問はしないのだろうけれど。万が一ということもある。もしものために準備しておくのはいいことだ。勝者は木村文乃。これは決定事項なのだ。ここ数ヶ月変わってはいない。
彼の名誉のためにいうけれど、もちろん彼の話も聴いていた。ちゃんと聴いてはいたのだ。
2017年12月22日金曜日
まずいねえ。やばいねえ。今年が終わってしまうよね。
今年もまた、まともな仕事ができていない。中途半端・・そうじゃない、妥協・・でもない。いいかげんなのだ。ただこなしているだけだ、形にしているだけだ。something else がないのだ。やばいぞ。まずいぞ。冗談じゃないぞ。
2017年11月19日日曜日
久々に電車に乗って遠出した。時刻表を見て切符買って改札を抜けた。ホームに立って電車を待って電車に乗った。
身体が上手に動かないことにイライラした。流れがスムーズでない自分の動作に少し驚いた。サイフの取り出し、ボタンの押し方、その切符をどうやって保管していたのか、サイフはバッグのどこにいれていたのか。毎日、しかも何度も繰り返していた作業をもはや覚えていない。上手にできない。自分がどんなバッグを使っていたのかさえ忘れてしまっている。
高校生の頃まで、電車とは市内を走る路面電車=市電のことだった。鹿児島中央駅・・・その頃、この駅は西鹿児島駅だったのだけれど・・・で乗車するのは電車ではなく「汽車」または「列車」だったわけで。どうゆうわけか今でもココではそれは電車ではなく列車でしかない。谷山駅のホームで電車を待つ私の耳に聞こえてきたのは「まもなく列車が入ります」というアナウンスだった。
2017年11月6日月曜日
仕事用の眼鏡を壊した。おしりで踏んづけたのだ。
流石にこんなこと初めてだ。眼鏡が合わなくなることはあっても壊したことはなかったのに。私が自分の目の老化に気付いたのは新幹線の座席だった。読んでいたのは村上春樹だったと思う。文章の中程で文字が躍り出したのだ。それは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だったはずで文字が飛び回り始めたのだ。この入院中に病院の図書コーナーでこの本をみつけて読み返した。病院では基本的に眼鏡ナシで過ごしたから、この本も裸眼で読んだ。読後の感想は以前とはかなり違ったものだった。島君。壊した眼鏡のことはまた後日。
ラベル:
世界の終わりとハードボイルドワンダーランド,
村上春樹
2017年11月5日日曜日
記憶に齟齬がある。
僕はあの時点でまだ彼女には会っていないはずなのだ。僕の記憶の中には存在してはいないのだ。ただ転校生の僕を彼女の方は見知っていたと話した。そんなはずはないと心の中で反論してみても始まらない。会話など交わしたはずがないのだ。僕が彼女を認識したのはその3年後のことだ。
2017年1月19日木曜日
私はあの街に30年住んでいた
少なくともあのマンションには20年はいたのだ。にもかかわらず。あの部屋のベランダから富士山が見えることに気付いたのは、あの街を去る先日のしかも日の入りの時刻だった。
いかに私がなにものも見ていないかを示す例ではないか。
いかに私がなにものも見ていないかを示す例ではないか。
登録:
投稿 (Atom)
