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2020年12月24日木曜日

昭和49年のクリスマスイヴは新宿にいた




 まだ,アルタはない。たしかニコウという名前のビルが建っていた。

新宿はいまほどきれいな街ではなく。雑然とした間延びした街だった。でも上京したての田舎者には立派な大都会だ。

夕刻,ぼくと小森は国鉄新宿駅にむかっていた。どうして薄汚い男がふたりしてそこを歩いていたのかは忘れてしまった。年末にはふたり別々に故郷に帰ったはずだから,ますます設定が思い出せない。

その年,ぼくは寝台特急で帰省した。新幹線はその年の春には福岡につながっていた。東京から福岡までが7時間。乗り換えて,西鹿児島まではさらに5時間だった。寝台特急では22時間もかかったのだから,おもえば大変な長旅だ。

ふたりの貧乏学生が腹をすかせて新宿駅に到着しようとする頃。雪が舞い始めた。絵にはならないふたりだった。けれど,立ち止まって街を眺めるくらいには美しかった。

2020年11月25日水曜日

鹿児島中央駅まえの「若き薩摩の群像」の像を背にすると

 



市電の線路が目の前を横切る。真正面の道は遠くに桜島の一部が顔を見せていて「ナポリ通り」という名をもつ。ナポリ通りに腹を突き出し,薩摩の群像の像を背にして,2時の方向に右手を挙げるともうひとつ大通りがみえる

鹿児島中央駅の周辺は昔とは大きく風景をかえている。駅の名前がそもそも「西鹿児島駅」だったのだ。西鹿児島駅の東側の道路は放射線状に伸びていた。いまでもそうだ。西側はすこし離れてはいたけれど丘がせまっていた。薩英戦争のときには,実際この小高い丘の上からも,大砲を撃った。・・・開国以前の話をはじめるとぼくのはなしは,前には進まなくなる。そうでなくてもすでに横道だ。

 


2020年11月18日水曜日

明治100年の前年,僕は小学6年生だった。

 僕の育ったこの土地は明治維新に想像以上に重きをおいている。この郷土自身が,だ。50年前には現在よりももっと顕著な地域特性だったと思う。

その年,翌年の明治100年を記念する行事がたくさん行われていた。準備されていた。我が小学校では「99年前の星」という劇が上演された。学芸会だったのかも知れない。その練習はかなり前から行われていた。たくさんの先生方や親たちもいれこんでいた。その日,その劇は,たくさんの客をまねいて午後から上演された。僕がランドセルその他の午前中の学習用具を持たずに登校したことは,かなり長い間,母の昔話のネタになった。

その頃の小学校の先生方の多くは現在も御存命だ。

そして僕の学校生活は・・・いつも,どこも,とても恵まれていた。周囲の話と比較してもかなり運のいいことなのだとは思う。


2020年11月17日火曜日

彼女に出会ったのは明治100年のことだ。

 



その頃,中学校の1年生の僕は彼女に出会っている。出会っているはず。児童数がかなり多かったころで,同級生もたくさんいたから,彼女もその同級生タチの中のただのひとりなのだ。そのはずだ。僕の中で特別な存在ではなかった。そのはずだ。小学校や中学校のころの僕は優等生で,その後,自分の位置は徐々に評価をさげることになるのだけれど,そのときはまだスーパースターだった。学力では,たとえば中間テストや期末テストのことだけれど,文句なく中学校で1位の成績だった。9教科900点満点のテストで,890点はとっていたのだから,ダントツの学年1位をとっていた。
その中学を転校してしまうまで,学年1位をゆずることはなかった。かと言ってガリ勉ではなかった。仲間は運動部の連中で,転出する最後の日曜日まで,バレーボールの試合に出ていた。キャプテンセッターだった。友人はアタッカーの小松や,脇君や,大阪から転校してきた金丸君や,剣道部の・・・いいかげんで名前を忘れてしまっているけれど,・・・楽しい中学生で,恥ずかしくて女子とは口をきかなかった,きけなかった。たてまえは・・・表むきは・・・だけれど。

2020年10月10日土曜日

木田先生も日替わり定食を待っていた。

 





先生と初めてお会いしたのはお茶の水の古いキャンパスの正門近くのスパゲティ屋さんだった。先生は齋藤先生の後任としていらしたのだから,もうあのクリスマスの次の年だったことになる。
ずいぶん昔のことだ。お茶の水の周辺の風景は好きだった。神田神保町あたりを歩くときは,いつもお腹をすかしていたし,お金なんて小銭しか持ってなかった。欲しい本を見つけたときは出直してくるのだ。齋藤先生の岩波文庫★ひとつを買った日はお昼ご飯はなしだった。

2020年9月18日金曜日

モンシロチョウが落ちていくような空をずいぶん見ていない

 



あおさが足りないとか深さが足りないなんてレベルではないのだ。雲が淀んで空を隠している。何よりモンシロチョウの白の白さが弱すぎる。もっとはっきりした白が欲しいのだ。

この騒動が落ち着いたら,季節が変わったら,モンシロチョウが落ちていきそうな空を眺めに行こうと思う。

長野の友人が送ってくれたブドウに齧り付きながら思った。

そうだ。長野へ行こう。小海線を揺られるのは好きだ。このまえ,小淵沢の駅を降りたのがいつだったか覚えてもいない。昭和だったことだけは確かだ。

2020年9月12日土曜日

何だか変な天気だ


どしゃぶりではない。晴れてはいない。灰色の重そうな色の雲・・こいつは私の呼吸を荒くさせるのだ。

父が与えてくれた鉛筆削りにどんな絵が描かれていたのか覚えていない。私は鉛筆削り用のカミソリが欲しかったのだ。父が小刀で器用に鉛筆を削っていたからだ。友人たちの多くが購買部で売られているカミソリを持っていたからだ。

こんな安物の鉛筆削りでも結構役に立つ。小さなカッターではたくさんの鉛筆を削るのに時間がかかる。電動鉛筆削りはウルサくて,なによりあっという間に,鉛筆を食べてしまうからだ。

あした天気になりますように。



2020年9月6日日曜日

手作りキャンディーの動画をいくつか見た


見飽きないものだ。むかしからデパートの地下,ガラス越しに菓子作りを眺めるのが好きだった。

質量の大きい雨粒がゆっくりと落ちているような,屋根を押しつけるような音がする。台風なのだ。

やれやれだ。

2020年3月31日火曜日

むかしばなしばかりするようになった



これもまた,むかしむかしの話で,僕は一度だけ志村けんをみかけたことがある。
それは彼が何かの不祥事で芸能界を干されていたときで・・自粛していたときで・・夕刻の原宿でのことだった。みかけたといってもすれちがっただけで,声をかけたわけでもない。どうして僕がそんなトコロにいたのかも覚えてはいない。誰かと一緒だったとは思うけれど,それが誰だったのかは忘れてしまっている。僕が原宿にひとりでいくわけはないからだけれど。
だからどうしたという話ではない。オチもない。教訓もない。新型コロナの騒ぎの年に,彼が亡くなったということも,ほどなく忘れてしまうのだろう。そう思う。

2020年3月22日日曜日

世の中の大騒ぎで僕の生活に変化があるわけではない。



自分の仕事に何の影響もない。
けれども周囲に少なからずモヤモヤがみちている。それは感じる。
ひとの動きはボタボタし,ひとの感情はピリピリし,僕はそれを受け止める力量もない。
もちろん,みんなではない。普段通りの友人はいる。普段より冷静に話を進める友人はいる。けれどそれがすべてではない。
多くはモヤモヤを抱えてそれを隠さない。
それでも僕の生活に別段の変化があるわけではない。なんて・・ね。
連絡待ってます。