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2020年11月25日水曜日

鹿児島中央駅まえの「若き薩摩の群像」の像を背にすると

 



市電の線路が目の前を横切る。真正面の道は遠くに桜島の一部が顔を見せていて「ナポリ通り」という名をもつ。ナポリ通りに腹を突き出し,薩摩の群像の像を背にして,2時の方向に右手を挙げるともうひとつ大通りがみえる

鹿児島中央駅の周辺は昔とは大きく風景をかえている。駅の名前がそもそも「西鹿児島駅」だったのだ。西鹿児島駅の東側の道路は放射線状に伸びていた。いまでもそうだ。西側はすこし離れてはいたけれど丘がせまっていた。薩英戦争のときには,実際この小高い丘の上からも,大砲を撃った。・・・開国以前の話をはじめるとぼくのはなしは,前には進まなくなる。そうでなくてもすでに横道だ。

 


2020年11月18日水曜日

明治100年の前年,僕は小学6年生だった。

 僕の育ったこの土地は明治維新に想像以上に重きをおいている。この郷土自身が,だ。50年前には現在よりももっと顕著な地域特性だったと思う。

その年,翌年の明治100年を記念する行事がたくさん行われていた。準備されていた。我が小学校では「99年前の星」という劇が上演された。学芸会だったのかも知れない。その練習はかなり前から行われていた。たくさんの先生方や親たちもいれこんでいた。その日,その劇は,たくさんの客をまねいて午後から上演された。僕がランドセルその他の午前中の学習用具を持たずに登校したことは,かなり長い間,母の昔話のネタになった。

その頃の小学校の先生方の多くは現在も御存命だ。

そして僕の学校生活は・・・いつも,どこも,とても恵まれていた。周囲の話と比較してもかなり運のいいことなのだとは思う。


2020年11月17日火曜日

彼女に出会ったのは明治100年のことだ。

 



その頃,中学校の1年生の僕は彼女に出会っている。出会っているはず。児童数がかなり多かったころで,同級生もたくさんいたから,彼女もその同級生タチの中のただのひとりなのだ。そのはずだ。僕の中で特別な存在ではなかった。そのはずだ。小学校や中学校のころの僕は優等生で,その後,自分の位置は徐々に評価をさげることになるのだけれど,そのときはまだスーパースターだった。学力では,たとえば中間テストや期末テストのことだけれど,文句なく中学校で1位の成績だった。9教科900点満点のテストで,890点はとっていたのだから,ダントツの学年1位をとっていた。
その中学を転校してしまうまで,学年1位をゆずることはなかった。かと言ってガリ勉ではなかった。仲間は運動部の連中で,転出する最後の日曜日まで,バレーボールの試合に出ていた。キャプテンセッターだった。友人はアタッカーの小松や,脇君や,大阪から転校してきた金丸君や,剣道部の・・・いいかげんで名前を忘れてしまっているけれど,・・・楽しい中学生で,恥ずかしくて女子とは口をきかなかった,きけなかった。たてまえは・・・表むきは・・・だけれど。